東京藝術大学 音楽学部楽理科/大学院音楽文化学専攻音楽学分野

卒業生の声 就職活動

メディア(出版・放送・新聞)

 楽理科を卒業して音楽に接点のある仕事に就きたい・・・至極当然の希望と言えるでしょう。しかしながら音楽業界の新卒採用は非常に少なく、毎年若干名の募集に数千人が応募するという状況です。それは楽理科出身であることが有利か不利かを考える以前の現実と言えます。
一般に新卒採用では、企業は学生に対して専門性よりどんな職種にも順応できることを求める傾向が強いと思われます。従ってエントリーシートの記入や面接では、音楽に偏重した人間ではないことを上手にアピールする必要があるでしょう。一方、会社に入ってしまえば、音楽を専門的に学んだことは一つの武器になり得ます。例えばレコーディングの現場では譜面が読めるにこしたことはありませんし、クラシックの仕事では作曲家やレパートリーの知識があればあるほど役立ちます。
就職希望の方は、志望する業界や会社がどのような採用をおこなっているのか早くからリサーチし、学生生活のなかで得た体験を自己アピールや志望動機にリンクさせていく努力を惜しまないでください。それと面接の場数を踏むことは必要だと思います。仮にうまく応えられなかったとしても、あの時こう言えばよかった・・・という後悔がその後の面接に生かされてくるからです。内定までの道のりは長く険しいかもしれませんが、ご健闘と幸運をお祈りしています。
2004.5.7 1997年修士課程修了 レコード会社勤務 KO

 
現在の就職

 私の現在の就職先はアメリカの公共テレビ放送ネットワーク(Public Broadcasting Service = PBS)のニューヨーク局である。PBSは多くの共同製作でも明らかな様に日本のNHK、イギリスのBBCにあたるテレビ局。 全米に350強存在するうちニューヨーク、ボストン、サンフランシスコが3大局である。主な番組はドキュメンタリー、歴史、自然科学、芸術、教育等だが、ニューヨーク局の場合場所柄音楽、演劇、ブロードウェイ・ミュージカル等芸術関係が非常に強い。またセサミストリートも我々の局が制作を始めた番組である。
私の仕事は資金調達部にて大口個人寄付者相手のファンドレイズ-資金調達-、特に新規寄付を開拓することである。アメリカは産業ごとよりも仕事のスキルで転職する。従ってカーネギーホールで企業相手のファンドレイズに関わった私はテレビ局にファンドレイズ・スタッフとして採用された。
アメリカの公共テレビは日本の様に視聴者の受信料で運営されるのではなく、ニューヨーク局だけでも年間約220億円の予算の多くを寄付で調達する。ロックフェラー等アメリカの代表的フィランソロピストを相手にせねばならないこの仕事は、パーティ等の華やかな部分もある反面、ミスが許されないため常に細かい確認作業も多い。しかしやはり、社会のための仕事という性格も強く、そうした意味での達成感は高いと言えよう。

2003.7.17 1991年学部卒 環

 

楽理科経由で就職を考えていらっしゃるみなさんへ♪

 社会人の中には「学生時代に戻りたい・・・」という人がいますが、私は今のところそうは思いません。私は元来一所に留まらない性格の持ち主で、学生時代には興味の赴くままにさまざまな勉強や活動をしました。学生生活に悔いなし!――今は、人・もの限らず豊富な出会いを提供してくれた芸大・楽理科に感謝の気持ちでいっぱいです。
前述のように興味の散漫な私は、研究職には向かないかしら?と思って自然の流れで就職活動をスタートさせました。大学を卒業の3月末まで満喫しきった!!ため、論文の事後処理に追われながら就職活動をするというハメになりながら、いろいろ回り道をしたあげく、縁あって現職場に就くことができました。
就活をして一つわかったのは、「私の大学生活は誰にも負けないくらい充実してたぞ!!」と自信をもって言えるのなら、必ずそれを理解してくれる場所があるということです。また、日頃からいろんなことを面白がって、広くアンテナを張っておくことも大事だと思います。これから就活をされる皆さんには、芸大に転がっているおもしろいネタを自分なりに拾い集めて、唯一無二の個性を伸ばしていって欲しいと思います。
今、私は忙しくもとても充実した社会人生活を送っています。幸運にも、仕事上でも興味深いネタはそこらじゅうに転がっていて、未だに探究心は尽きません。これからは、学んだことをより多くの皆さん(視聴者)に還元し、喜んでいただくことが母校やお世話になった方々への恩返しにも繋がると思い、頑張ってゆく所存です。
良い意味で学生気分を持続し、いつまでも若くありたいなぁというのが理想とするところ。お互い頑張りましょう! では。
2003.6.30 2002年学部卒 放送関係 m/t

 

 楽理科という所に好んで入る以上、残念ながら、就職の道は険しいという覚悟は決めた方がいいでしょう。けれど、入学後4年間はどっぷりと音楽に浸り、楽しみ、たくさんの知識と体験を得ておくことをお薦めします。あまり就職を意識し過ぎて、在学中から「実用的」な方向に目を向けても、実践の現場では役に立たないからです。
国立の音大卒というキャリアは一般社会ではかなり特殊で、「楽理科の人は頭が良い」という評価も、音大の中だけで通用するものです。一般の人は「音楽学」などという分野があることすら知らず、楽理科卒の学生が一体何に興味を持ち、何を知っていて、何ができるのか、なかなか理解を得られません。自分はどういう人間かを人並み以上にアピールしなければならないという意味で、楽理科生の就職活動は一工夫も二工夫も必要なのです。
在学中に、自分の好きな音楽を追って半年くらい海外を一人旅してみるとか、英語ならばTOEFLなりを受験して高い点数を獲得しておくとか、「自分自身で成し遂げた何か」を一つでももっていると良いと思います。履歴書に、学歴だけでなく、自分の個性とバイタリティを主張できるような何かが書けないと、特にマスコミ関係への就職は難しいでしょう。  現在はどこの版元(出版社)も、活字離れが進み、少子化でテキストの需要も減っている現在、本が売れない=利益が出ないで苦心しています。私が所属する版元で扱う人文科学系の業界では、5000部売れたら成功、10000部を超えたら大ヒットと言われてきましたが、この数字でさえ年々減っています。利益が減れば社員の収入も減るのは当然で、好きでなければできない仕事ではあります。
ただし、部数の多寡にかかわらず、「手応えのある売れ方」というのがあり、自分自身の関心と、著者の関心、そして読者の関心の3つが結びついて、「こういう本が書きたかった/読みたかった」という共感を心から感じられるときがあり、そのような時は何にも代えがたい編集の醍醐味を味わいます。そのような本を1冊でも多く作りたいと願いつつ、目前の仕事に追われる毎日を過ごしています。

2003.6.19 1991年修士課程修了 近藤文子(春秋社編集部)

 

中・高教員

 楽理科のみなさん、そしてこれから楽理科を目指そうというみなさん、こんにちは。私は2002年に修士課程を修了し、この4月で教員生活3年目に入る者です。
私の場合、一年目には私立学校の常勤講師をし、二年目(本年度)は公立中学で「臨時的任用教諭」をしております。私立、公立と両方の学校を経験したわけですが、職場の雰囲気は驚くほど異なります。私立は、いわば「企業」ですから、勤務内容が比較的システマティックに整理されています。どちらかというとドライな感じです。他方、公立にはいわゆる熱血漢の先生が多いようです。勤務終了時間になっても「帰らない」人が多いです(決して「帰れない」のではない)。むろん、職場の内実は、その学校自体の性格に最も大きく影響されます。例えば、私立の進学校では音楽の授業時数は極端に減らされ、そのぶん音楽教員は塾対象の学校説明会にかり出される、といったこともあります。学校教員を志望している人は、その点を覚悟しておく必要があるでしょう。
採用試験は、いまだ高倍率です。必勝法などはありませんが、一つお勧めできるのは、学生時代に人を束ねる立場を経験しておくことでしょうか。人を使う側(採用者)の気持ちが見えてくるはずです。
ただ、専門の勉強も決しておろそかにはしないで下さい。在学中勉強そっちのけで友人と演奏活動をしていた私を暖かく見守って下さった楽理科の先生方には、今も頭が上がりません。自分の土台となる分野を持つことは、とても大事なことです。以上、反面教師からのコメントでした。
2004.3.24 もん 2002年修士課程修了 2004年4月より学習院中・高教諭

 

音楽マネジメント

 私は、自分から頼んでアルバイトをしていた音楽事務所の社長に声をかけて頂き、四月から社員として働くことになりました。それまでの山あり谷ありの道はとても一言では説明できません。そんな中で迫ってきた卒論の締め切り・・・その頃のことはよく覚えていません・・・。
私は大学に入った頃からコンサートのプロデュースに魅力を感じ、オーケストラのステージ、レセプショニストなどのアルバイトを始め、研究会やセミナーにも顔を出し、就職するぞ!と意気込んでいました。しかし、現実は甘いものではなく、思った通りにはいきませんでした。そんな時、ふと、私は結局早く仕事を決めたいという気持ちばかりが先行して、具体的に何をしたいのかについて掘り下げることから逃げていたのだな、と気づきました。掘り下げると、迷路のようにどうしていいのか益々分からなくなりましたが、今思えば、それこそが一番大切だったのかもなと感じます。
今できること、やりたいことを精一杯やる。大学時代はそれができる一番のチャンスです。その過程でいろいろな人に出会い、自分をしっかり持つことができるようになる、そうなると必ず道は拓けます。でも、ここまでこられたのは、何よりも、雨の日も晴れの日も芸大の学食・大浦食堂で一緒にお菓子を食べながらたわいのない話に付き合ってくれたみんなのおかげです。
2004.3.11 学部4年 ウメ子その後

 

大学教員・助手

現在、http://www.media.is.tohoku.ac.jp/semiotics/ にいます。ドクター10名、マスター2名、研究生1名の指導をしていますが、音楽、映画、演劇、文学、広告、漫画、文化論、社会論(社会学)、美学、都市論と記号論に関係することなら何でもござれというのがちょっとキツイところです(バルトのせいだ~)。しかし、東大の比較文学・比較文化課程で古今東西の思想・文学・文化に関する本を片端から読み飛ばしたのが随分と効いていると思います。在学中、柴田南雄さんと大喧嘩をしましたが、それにしてもあの先生は博学というか真に学際的でした。独法化と共に芸大も最近ようやく新分野を立ち上げたようですが、やたらハイテクぶらず、また実益に走らず、旧制高校時代風のあの古き佳き教養だけは忘れて欲しくないものです。なお、本学には、国際文化研究科でスペイン語を専攻し、その非常勤をしている楽理科出身の女性がいます。当研究室も音楽以外に関心を持つ方たちにとっては就職・研究の両面において最適な場所かと思います。
2005.3.7 1970年楽理科卒 足立 美比古

 

 天国は図書館の内側にある──化学者/美学者バシュラールの言葉です。毎日図書館に出入りできる職業につきたいと祈念するうち、大学助手の職を得た私も、ひとまずは「図書館の内側」の気分です。
学部で教員免許状を取得、修士課程に進んだ時に私立高校で非常勤講師のご縁を得、もとめられるまま常勤へ転向しました。しかし学生でないと図書館に入り浸ることができないので、この就職は1年で頓挫。修士課程に戻り、修了後、芸大図書館や音楽研究センターでアルバイトをしてご縁をつないで(=入館証をゲットして)いる折、大学の公募に応募して現職に採用されました。
私が所属する音響設計学科の特色は、技術(科学技術techneや芸術の技術art)の自律的発展に「待った」をかけて、その功罪を実践的に問う視点です。それは、演奏や聴取といった音楽体験を、社会的あるいは哲学的視点から総合的にとらえようとする音楽学の姿勢に似ています。補聴器具設計・室内音響設計・騒音防御設計につきものの数式をきちんと読めないのはストレスですが、それでも楽しく過ごせるのは、こうした物理音響学的な視点を、かつて楽理科で学んだ音楽学の視点にリンクさせて考えているからでしょう。
思い通りにならないことも沢山あります。山盛りの書類、官僚さんとのやりとり、長引く実験や学生の人生相談で眠れない毎日、倉庫の中でカビちゃった楽器との格闘……etc。でも図書館に通えるのだから、「これだけはゆずれない」というものを持っているのだから、何がふりかかってきても負けないぞ、ここでの問題解決に全力を尽くすぞ、と思います。

2003.10.2 2000年修士課程修了 栗原詩子 九州大学芸術工学部音響設計学科助手

 

 私は恐らく変わったタイプで、小学生で東京芸大に楽理科が存在することを知った時から楽理科を目指し、入学した時には日本音楽を専攻すると決めていた。しかし、いわゆる日本の伝統楽器には触ったことが無かったという支離滅裂な状態でもあった。
入学後は、雅楽の授業で三管を一通り習い、副科で清元三味線、常磐津三味線、篠笛、山田流箏曲、狂言、日本舞踊、打楽器、独唱、ピアノ・・。他にも指揮法や合唱、西洋古楽などの実技を履修し、何だか楽しい学生生活であったが、一方学外でも義太夫三味線弾きへの道を歩み始めた。
私の在学中は、日本音楽史の講座である第三講座(当時は上参郷祐康先生が担当されていたので、ウラでは参ゼミとも書きました)の縦の学年の仲がすこぶる良く、いろんな意味で実に人材豊富であった。特に優秀な先輩方と一緒に東大寺の修二会、小河内の鹿島踊などのフィールドワークに度々行ったことは忘れられない。フィールドワークにしろ、論文にしろ、発表にしろ、授業にしろ、仕事にしろ、とにかく音楽学というフィールドは、音楽の分かる複数の人間の目があるところに曝され、気付いた点を指摘されることによって、頭や感覚を鍛えるべきである。社会に出てみると、腐っても楽理科、と言って良いのか分からないが、つくづく楽理科にはそうした素地があったのだと思う。それがあるからこそ、たとえ芸大の楽理科という学科を離れた後であっても、常に「いい加減なことをしてはいけない」という危機感に満ちた責任感を胸に抱き、正面切って仕事をする姿勢が出来ているのではなかろうかと思う。楽理科は、そうした基本的な「ものを見る目や考え方、プロセスを学ぶ場所」であると私は考える。
私自身は、学部生の時に文楽の竹本越路大夫引退公演を見て、論文を義太夫節にしようと決めたことをきっかけに演奏への道を歩み始めた。その時に最初に考えたのは 「浄瑠璃のことや義太夫三味線のことが分からずに音楽学的アプローチをするには限界がある」ということだった。「分かる」というのは、とても難しいこと。「聴いた印象」などだけで音楽を分析して良いのならば、誰にでも出来ることである。

2003.12.24 1995年修士課程修了 邦楽科 非常勤助手 太田暁子

 

 現在、新設学科・音楽環境創造科の非常勤助手として勤務しているが、ここでも楽理科入学以来のデジャヴ体験が続いている。楽理科入学当時、友人知人親類一同から真っ先に訊かれたのが「ガクリカってどういう字?何するところ?どうしてガクリカに?」ということだった。日本音楽を研究対象にすれば「どうして日本音楽に方向転換?ご両親はそっち関係?」。常磐津(トキワヅ)三味線を習い始めれば「トキワヅってどういう字?どうしてまた?ご両親は?」。その延長線上でか、今日も「オンガクカンキョウソウゾウカってどういう字?何するの?またどうして?」と訊かれ続けている。今や楽理科で培った「何か自分のアンテナに触れるものがあれば、少々他人の目に物珍しく映ろうとも!とりあえず突き進む」やり方は、楽理科を離れても(少なくとも音楽に関しては)私の常套手段となりつつあり、おかげで音楽を巡る関心が多少拡がりもし、自分なりのペースで最も興味のある対象とつかずとも離れない状況を作ろうとしているのだと思う。楽理科は私にとって、音楽との向き合い方のヒントを様々に散りばめ、そのことについて真っ向から考えさせてくれる場所だったのかもしれない。

2003.6.13 音楽環境創造科 非常勤助手 前原恵美

 

 歴史と音楽が好きだった私は、恩師の勧めでなんとなく楽理科を受験しました。さしたる研究目的もなく入学してしまったことが、かえって慣れ親しんでいたジャンル以外のさまざまな音楽にも耳目を広める機会に繋がったように思います。自分の専攻以外にも幅広い知識を得ることができ、何よりもそれらを専門とする多くの先輩や友人と知り合うことができました。
現在私は芸大の音楽研究センターに勤務しています。ここは研究者・学生に音楽に関する資料や情報を提供するところです。音楽関連資料も電子化が進み、コンピュータにキーワードを入力すれば簡単に情報が得られる反面、役立たない情報や誤った情報も氾濫しています。キーワードの僅かな違いで重要な資料を見落とすこともあり、コンピュータを過信することはできません。膨大な資料すべてを理解することは勿論不可能ですが、楽理科で学んだ基礎知識やそこで培われた人との繋がりは、的確な資料・情報に辿り着くのに大いに役立っています。

2004.7.27 1983年度入学 PMY

 

楽理科時代の経験

「何でもできる」
私は楽理科に入る前、どんな勉強ができるところか知りたくなって、知人を頼って楽理科の先輩に手紙を出したことがあります。そこでもらった回答が冒頭の一言。なるほどその通り、それまでの私の音楽体験では知り得なかった様々な世界の音楽にふれることができました。耐久8時間カラオケ、バーでの夜通しジャズ演奏、病院や施設での音楽療法、農村歌舞伎、舞楽等々見たり聴いたり実践したり。2002年に修士課程を修了し、私は今、音楽学部内にある音楽研究センターというところで働きながら、週3回興味あるジャンルのお稽古に通い、時々観劇、思い出した頃にカラオケをしては勉強しています。こうして眺めてみると、今の私の生活の要となる部分は学部時代の興味関心やネットワークが基盤となって展開しているんだなあとつくづく実感します。今後もこの基盤を生かして、そして「何でもできる」の精神を忘れずに、地道に一つ一つの疑問を解決していこうと思います。
2004.7.6  2002年修士課程修了 ノウゼンカズラ  東京芸術大学音楽研究センター非常勤助手

 

他学部、他大学への進学

 楽理科の四年間で学んできたことは今私の唯一の拠り所です。先生方や先輩方が示してくださった研究に対する姿勢や手法は、そのまま現在の研究に大いに役立っています。調査や研究の過程は、もちろん扱う問題やアプローチの方法によっても異なるし、人によって様々です。しかし、共通している部分がいかに多いかということを痛感しました。また、修士で入学した言語芸術はすぐ隣の分野であるにも関わらず、最初は雰囲気の違いにとても戸惑いました。その時相談にのったり励ましたりしてくれたのが四年間一緒に学んできた楽理科の仲間たちや先輩方でした。私は今自分の方向についてまだまだ迷っている最中ですが、楽理科の授業で学んだ多様な音楽や、研究の方法、そして様々な人を大切にして頑張りたいと思っています。音楽とは何か、言葉とは何か、芸術とは何か、をとことん考えたいです。
それにしても、 四年間もっと真面目に勉強しておくのだったという後悔は拭えません…。
2004.1.13 2003年度楽理科卒 修士課程音楽文芸専攻 ねっこ

 

楽理科の4年間を振り返って

 オルガン科に所属することになって、はや1年が過ぎた。正式には器楽科オルガン専攻というだけに、学科からして以前所属していた楽理科とは随分異なる生活を送っているが、意外なときにふと思い出されることがある。
実技を専攻する学生にとって、表現するという行為や欲求はしごく当然のことである。しかし表現行為自体あまり慣れていない私にとって、オルガン科に来た当初、その「しごく当然のこと」が大仕事に思われて仕方無かった。演奏するにしても、全て自分なりに完成してからでないと演奏したくなかったのだが、そういうペースでは当然レッスンには間に合わない。不完全でも良いから、現段階での総力をもって表現しなければならないのある。
そんなとき、ふと楽理時代を思い出す。ゼミの最中、 ふと頭によぎったアイディアや疑問を、黙殺してきたことを。学術的な理論とかけ離れているのではないか、 予備知識が無さ過ぎるのではないかと思い、発言をしなかった。発言をしなければ何も起こらずに済む、という消極的な習慣がいつしか身についてしまったようである。しかし、これは決して私一人の問題ではないのではないか。楽理科において、表現するか否かの選択は必然的に全て自分に委ねられる。だからこそ、自分から何か発信しようと常に心掛けていなければならないと思う。
大学という場所は、そのような試みがぶつかり合う絶好の場所である。現在楽理科に所属する学生さんたちには、是非ともゼミを賑わしてもらいたい。
2003.5.30 2001年楽理科卒 器楽科オルガン専攻 N

 

 私は高校2年生のときに1本の電話で楽理科の受験を決め、某有名塾で勉強を続けた。
そして大学院は音楽教育の研究室に入り、現在公立の小学校で音楽専科を始めて3年目になる。
入学当時から就職するまでほぼ7年間本厚木のYMCAに関わって水泳指導やキャンプ引率をした。そのとき全く平泳ぎを習ったことのない女の子が一度のレッスンで25M泳ぎきった、ということがきっかけになって「教えるっておもしろいナ」と思い始めた。そして、自分を振り返ってみた時、競泳をやってこなかった故に水泳のインストラクターになっても極められない→そういえば私はずっと音楽をやってきた→音楽教育の勉強をしよう!という気持ちになった。それが大学3年の頃だ。今、私は子ども・音楽が好きだ。もちろん心身ともに色々あるが、楽理科や音楽教育で学んだことは生涯の宝物だ。そこで出会った多くの方々、それが今の私を支えている。だから、私も後輩の役に立ちたい。

2006.4.26 2000年楽理科卒 オッティ

 

 楽理科を卒業後、他大学院の文化人類学研究室の修士課程で英語の社会系文献に溺れる日々を送っています。周りは社会科学畑出身の人たちばかり。芸術系出身者への眼差しには、普通科の高校で芸大を志望していた頃に受けていた視線を思い出します。
芸大では、デスクワークよりも身体で音楽や芸術に触れることを最優先して過ごしました。学内に掲示されるバレエやオペラ、演劇の無料招待情報は必ずチェックし、副科実技もめいっぱい履修しました。美術館も活用し、学芸員資格も取得しました。そして何よりも、ユニークな仲間たちと濃密な4年間を共有することができて、本当に幸運でした。
他大進学を決めた理由はいくつもありましたが、実際に出てみると、音楽を、そして音を、また違った耳で聴くようになっている自分に気付きます。仲間がみな芸大の院試を終えて卒論を出した後の他大学院一本の受験は、想像以上に苦しいものでしたが、友人のそのまた友人といったつてを頼りに情報を集め、就活中の友達と励まし合い、そしてたくさんの応援をもらって、長い冬を乗り切ることができました。
現在通っている大学は、学問には最適の環境です。けれども、学部時代は楽理科でよかったと、心から思います。学校生活の中で気軽にさまざまなアートに触れることのできた4年間からは、今後の研究のみならず生活全般に関して、非常に貴重なバックグラウンドをつくることができたように思うのです。

2004.6.29 2003年度学部卒業 帽子

 

「総合大学と楽理科」

 私は他大学から藝大に入学し、そして今また他大学で学んでいる。今思えば楽理科 で「音楽」を追究できたことは本当に贅沢な幸せだった。楽理科にはおよそ地球上の さまざまな音楽を研究する先輩や友がいて、また留学生も少なからず居る。音楽の深 みを追い求める気概と能動的な意欲を持つ人ならば、とても刺戟的な場所だろう。私 は自分に足りなかった歴史学や人類学の知識・考え方を追い求め、同じフィールドを 志ざす友が多くいる場所に来た。今は総合文化という、より広い学問的枠組みの中で 、人間と音楽の関係を新たに考えている。しかし、今こうして広汎な研究の土壌に自 分が立っていられるのは、藝大でさまざまな音楽シーンに接して感動し、楽理科で音楽学の学識を得ることができたからだと強く思う。楽理科で何ができるのか―その考 えはもう古い。楽理科で自分がどうするのか!それこそが大切で、楽理科はその心意 気にきっと応えてくれる場所に違いない。
2004.6.18 2003年度修士課程修了 他大学博士後期課程在籍 飛び出せ青春

作家、執筆活動

 ぼくの場合、「就職」とは言えません。雑文を切り売りしているうちになんとなく今があるといった感じです。と、言うとバラ色の印税生活を想像させてしまうかもしれませんが、現実は灰色のバイト生活です。
雑文を書くきっかけは留学です。留学先はトルコでした。かの地で見聞したことを、いろんな人に伝えたくて『飲めや歌えやイスタンブール』(音楽之友社)という本にまとめたのです。順調に出版されたというワケではなく、20社くらいに売込みを重ねてようやく出ました。「夢見ることができれば、それは叶う」とウォルト・ディズニーが言ったとか。「あきらめたら、そこで試合終了だよ」と湘北高校の安西監督も言っています。そんな言葉で自分を励ましながら、各社に電話をしたのを覚えています。
さて、楽理科。楽理科は文章(とくに音楽に関する文章)を書く訓練の場として有益でした。論文を書くときに「わかりやすい文章を」と指導教官に口を酸っぱくして言われたことを思い出します。先輩たちからもたくさんの意見をもらいました。考えてみれば、トルコの音楽院に留学できたのも楽理科にいたからこそです。それから、現在仕事でおこなっている取材とはすなわちフィールドワークなわけで、これもまたゼミで学んだ知識にかなり助けられています。
「楽理科万歳!」――とは言いません。ただ、音楽に関わっていくうえでいろいろな出会いやきっかけが見つかりやすい場所であることには間違いないようです。その出会いやきっかけをもとに、自分が望む「(音楽に関した)訓練」を積みやすい環境にもあります。ですが、結局のところ、それを生かすも殺すも自分次第です。「楽理科=就職」と、ぼくには思えません。過大な期待は、大いなる失望につながります。受験するまえに、何をしたいのかもう一度考えてみて下さい。楽理科は職業訓練科ではないのです。
2005.1.11 2004年博士課程満期退学 斎藤完 雑文家(2004年11月に『民謡秘宝紀行』(白水社)を出しました)